被爆1年後の盆踊り大会
2018年7月16日(月・祝)
中国新聞(全15段)朝刊特集より
1945年8月6日、米軍が投じた原爆で広島は壊滅し、老若男女の13万~15万人が年末までに死去した(広島市が76年に国連へ示した推計値)。市内建物の全壊全焼は7万6千余のうち約68%に上った(市の46年8月調べ)。未曽有の事態は終戦による「平和」が訪れても続いていた。
広島市の人口は翌46年7月、約18万5千人と疎開地からの転入や復員、引き揚げから著しく増えた。しかし、市民はその日の食事をどう確保し、生き抜くのかが最大の関心事だった。行政自らが「食糧危機に当面する」ことを認めていた。
「市民諸君の中、田舎に土地を有する者…は『一時』帰つて農村の増産に協力し(略)本市に残る者は…焼け跡其(そ)の他の空閑地の全面的利用を」。当時の木原七郎市長が「広島市報 復活第5号」(7月20日付)で自給自足を呼び掛けた文面である。
ヤミ市が立ち並ぶ広島駅前で「食用野草試食会」を開き、学校では野草調理法も教えた。比治山国民学校(南区の比治山小)が出席児童を調べると、弁当持参は1460人のうち180人にとどまり、米と麦の混飯は78人でしかなかった。
困窮と廃虚が続くなか、「広島平和復興祭」が46年8月6日を中心に行われる。広島赤十字病院や各校での無料診療、ヤミ市より安い食糧や雑貨などの展示即売会、映画招待、音楽会などが催された。
市町会連盟は5日、基町の旧広島護国神社跡で市民大会を開く。爆心地から約370㍍、鳥居だけが残っていた。市民は「世界平和は広島から」「郷土の復興は我等(われら)の手で」との横断幕を掲げ、連合国軍総司令部(GHQ)が派遣し、壇上にいた市復興顧問にも願いを訴えた。
6日午前8時15分、全市にサイレンが流れた。
そして翌7日、「戦災供養盆踊り大会」が旧護国神社跡で行われる。主催したのは中国新聞社。全焼した上流川町(中区胡町)の本社で前年11月に自力発行を再開して復興を訴え、町内会の復活からを報じていく。原爆1年を前に「ユートピア広島の建設」と題した懸賞論文も募っていた。
爆心地一帯を会場とする盆踊り大会の開催に当たり、「平和的古典文化の復興」と唱えた。仏事にさかのぼる盆踊りは、ラジオの普及によるご当地音頭の流行から全国で再び隆盛。広島では29年に西条町(東広島市)で県下大会が始まり、吉田町(安芸高田市)では高田郡内のみならず安佐・安芸郡からの参加で盛況を極めた。しかし日中戦争に突入した37年に中断となった(「高田郡史」など)。
「戦災供養盆踊り大会」は、西条町や吉田町に、焼失を免れた仁保町(南区)などからの8団体が参加した。1組30人の踊り手。簡素なやぐらと太鼓の音であっても浴衣姿の盆踊りに、観衆は1万人を数えたという。戦争・原爆死没者を悼みながら生活の再建に立ち向かう、広島市民の熱気の表れでもあっただろう。
「8・6」と盆踊り
2018年7月28日(土)
中国新聞(全15段)朝刊特集より
「戦災供養盆踊り大会」は、基町の旧広島護国神社跡で行われた翌1947年8月6日、「県盆踊り大会」に名称を替えて新天地広場(中区)で開かれる。県内10団体が競演し、大林村(安佐北区)青年盆踊り倶楽部(くらぶ)が1位となった。
広島市や広島商工会議所などによる第1回平和祭、現在の平和記念式典の開催に伴う関連行事であった。
初の式典は、原爆投下の照準点となったT字形の相生橋とつながる慈仙寺鼻(平和記念公園)で営まれる。公選された浜井信三市長の平和宣言から、公募した「ひろしま平和の歌」の合唱と、今日に続く式典の骨格が形づくられた。
国内外のメディアは、連合国軍総司令部(GHQ)を率いるマッカーサーがメッセージ(代読)を寄せたことを大きく取り上げた。世界的な写真誌「ライフ」47年9月1日号はグラビアを組み、「厳かな追悼式の後はカーニバルの雰囲気に包まれた」と報じた。
「ピカツと光つた原子のたまにヨイヤサー」と声掛けする「平和音頭」の花がさ踊り、少女らのしゃぎり行列…。新天地広場を中心に関連行事は各所で行われ、人出は平日の約5倍といわれるほどにぎわった。とはいえ、市民からは「お祭り騒ぎはもってのほか」と厳しい声も上がった。
市などでつくる平和祭協会は48年6月に平和協会と改称。県盆踊り大会は8月8日、袋町小を会場に行われ約8千人が集まる。49年は新天地広場に戻った。
ところが、関連行事どころか平和祭そのものが50年、GHQの指示で中止に。朝鮮戦争が起き日本は米軍の出撃地となった。
大規模な盆踊り大会が再び復活するのは、占領統治が明けた52年から。デルタの夏の夜空を花火が彩る「ひろしま川祭り」(後の太田川花火大会、2003年に中止)の一環として市内各商店街で行われた。
初の原水爆禁止世界大会が平和記念公園内の市公会堂を主会場に55年に開かれると、「歓迎と祈りの国民大会」の一つとして盆踊りやバレエも披露された。
復興が進むに連れて各町内での盆踊りも盛んになる。原爆犠牲者が多く出た的場町(南区)は57年、猿猴川河岸に慰霊碑を建て碑前で盆踊りを行った。
原爆資料館の前でも「原爆死没者供養盆踊り大会」が開かれた。地元の民謡研究会が67年に始め、会員の女性たちが「広島音頭」などで踊りを披露した。
被爆地での盆踊り大会は現在、市社会福祉協議会を中心に各地区で続くが、被爆者の減少と高齢化にみられる世代交代で住民交流の様相がおのずと濃くなる。
「ひろしま盆ダンス」も市民交流とにぎわい創出を図る。同時に、原爆の惨禍と廃虚からの復興という記憶を、外国人観光客も集い踊るなかで体感することを願い目指す。新たな「平和祭」でもある。